黒田藩の御典医だった私の先祖と糸島の繋がり

黒田藩の御典医だった私の先祖と糸島の繋がり

中村循環器科心臓外科医院のルーツ:私の曾祖父、江藤貫山が福岡で成しえたこと
~天然痘との戦い~
種痘の習得と福岡藩での実施を主導、普及させたこと

1.プロローグ

私の母親が2023年7月に101歳でなくなりました。その法事の席で母親の昔のことや文部省から熊本工業高校、氷川高校の校長をしていた叔父(母の弟)の江藤恵治(故)のこと、江藤家が昔、福岡の地行あたりに住んでいた時の話が出てきたので、自分の先祖が医師としてどう活躍したのか調べてみる契機となりました。H5年に当院は開院したのですが、当時伊都文化会館で行った開院式で、私の叔父江藤恵治が九大医学部の諸教授をはじめとした多くのDrたちの前で今から述べる先祖の話、私のルーツのようなものを詳しく話してくれたのを覚えています。

私は熊本県の八代および熊本市で生まれ育ったのですが大学は九大に進学しました。東京、京都の大学を志望した時もありましたが、小さいときから母親に九大に行きなさいと言われていました。理由は母がもともと福岡市の中央区の地行出身で天神の大名小学校の教師をしており、福岡大空襲で疎開して熊本の八代に移住したからです。よく福岡空襲の悲惨な話をよく聞かされました。また、武士階級であった先祖が1871年(明治4年)廃藩置県、1876年(明治9年)抜刀令で録を奪われ塗炭の苦しみを味わい、祖父たちは母たち四人が当時生活が安定した教師になることを望み皆、師範学校に行かせたこと、まさに蛍雪の功を積み勉強した話を私が熊本高校時代に法事の席などで母や叔父からよく聞かされました。

2.黒田藩の御典医だった江藤家

さて、母方の先祖、江藤家は江戸時代から黒田家の支藩である秋月藩につかえる御典医で、先祖代々の墓は秋月の大涼寺にあります。いまからお話しする母の曽祖父である江藤貫山は江戸末期に福岡藩の黒田長溥公に仕え、特に功績が優れていたため福岡の天神の安国寺に黒田家のお墓と共に黒田如水公の横にあります(ありましたが現在は立体駐車場かもしれません)。当時私が学生時代に叔父の江藤恵治に連れてもらった時、貫山の功績が墓誌に刻んでありました。九大図書館などにある記録などで私の先祖と福岡、糸島を結ぶ興味深いエピソードがあります。

3.猛威をふるった天然痘

天然痘(痘瘡)という感染症があります。感染症の中でも最も怖い感染症の一つです。今は根絶された感染症ですが生物テロにも使用される可能性があるためWHOなどにはいざという時の為に菌は保管してあるようです。今コロナ感染で世界が大変な状況になりましたが、このような状態、いやもっと凄惨な状況が人類の歴史においては繰り返されてきました。日本では奈良時代から天然痘の記録があり人口の30%が亡くなったとされ、江戸時代もこの疫病が猛威を振るい、たくさんの人が亡くなったと記録されております。伊達政宗の片目を奪ったことでも知られております。徳川の将軍たちも何人も罹患しました。2023年NHKのTV番組大奥(医療編)で天然痘の悲惨さ、どうしようもなくリスクの高い人痘という危険な医療行為を死を賭しても接種しようとする人々の切羽詰まった様子が再現され放送されております。人類の歴史は感染症との戦いであることを改めて思い知らされます。

4.種痘(ワクチン)の伝来と技術導入の困難さ

天然痘に対しては種痘(牛痘)という今でいうワクチンの技術をイギリスの医師ジェンナーが牛の乳しぼりの人が天然痘にかかりにくいことから端緒をつかみ、牛の乳しぼりの女の人の水泡を少年の皮膚にこすりつけ種痘(牛痘)という技術を発見しました。それまでは患者のかさぶたや水泡液などを使って免疫ができることはわかっていましたが、人から採取したもの(人痘)は感染そのものをさせるわけでリスクが大きく、生きるか死ぬかの手段でした。牛痘であれば今のワクチンと同じように安全性が高いのでその後世界に急速に広がっていきます。鎖国時代の日本では主に長崎から牛痘は入ってきました(1849年ごろ)。当初、牛痘を液体として航路で持ってこようとしたため、日本に入ってくる途中で効力を失ってしまいました。佐賀藩の楢林宋建という藩医の提案により、乾燥したかさぶたを輸入することでこの種痘という技術は急速に日本に広がります。その後、各藩こぞって長崎に医師を派遣して種痘の技術を導入しよう努力してこの牛痘の技術は日本全国に広がりますが、現在と交通手段が違いますのでそれは困難を極めました。当時の種痘を各藩に持ち帰るために、すでに種痘を受けた子から膿(ワクチン液)を採取し次の子に接種していく、「植え継ぎ」や「膿戻し」と呼ばれた施術方式でした。そのため各藩こどもを連れていき植え継ぎをしながら帰国し伝えたそうです。

5.糸島の天然痘と種痘普及の苦労

当時の糸島の状況を郷土の歴史を詳しく研究論述されておられる油比貴次さんのブログ(http://nekomasho-ji.sblo.jp/article/188304222.html)に詳しく書かれてあります。上に述べた天然痘に対応する様子もこのブログを参考にさせていただきました。文章も面白く素晴らしいのでその一部をそのまま引用させていただきます。

『福岡藩では、まず長崎に留学中であった藩医の河野禎造に調査をさせたうえで、藩医の江藤貫山と安田仲元を同地(長崎)に派遣し、この種痘法の習得と研究を命じた。翌年には、志摩郡女原村の医師・牧野李山が怡土・志摩郡内の種痘医に任命されている。たとえば、この年の7月には怡土郡大門村、続けて周船寺村でも実施されており、大門村の子の膿を周船寺村の子に接種したと思われる。種痘を受けるため、村内の幼児が、母親や祖母に背負われ、また手を引かれて次々とやってくる。種痘の会場は、さながらお宮の祭礼のような人の集まりだったといい、後には出店が並ぶ地域もあったという。危険の少ない種痘とはいえ、接種後に高熱を発する子もあり、家族が夜伽(よとぎ)をし、時に疱瘡払いの祈祷を山伏に依頼することもあった。』

種痘が長崎で最初に実用化のされたのが1849年、糸島で種痘をすべて打ち終えたのが1853年ごろということなので今のコロナワクチンとあまり変わらないスピード感で接種されたということです。交通機関も徒歩か馬車などで今と比べ大変なのに驚きです。コロナワクチン接種者がずらり並ぶ現代の会場と種痘打つのに並んだ170年余り前の様子があまりにも似通っています。一方、牛痘ワクチンを使った種痘ですので、これを接種すると牛のようにモーモー泣く子になるというデマも流れたそうです。また当時医療の主流であった漢方学者がなぜか種痘に異議を唱え妨害したということも記載されております。現代のコロナワクチン接種に反対される方々がいらっしゃるのと同じで、歴史は繰り返されるものだと改めて痛感させられます。記録では、1849年7月(嘉永2年)長崎に種痘所が設けられ、同年11月に福岡藩主、幕末の名君、黒田長溥みずから江藤貫山に指示して、長崎にて牛痘苗(ワクチン)を入手し、藩重臣の反対を押し切って種痘(牛痘法)実施を指示したと記録されています。人びとの不安や恐れなどから、種痘の実施や普及には大きな苦労があったというふうに伝えられています。嘉永2年、種痘の開始にあたって種痘書を平易な文章に改め牛痘告論書として領内に配布しました。それに併せて種痘詐欺が横行したため福岡藩では江藤貫山(内科、小児科)、安田仲元(鍼科)に藩の種痘事業を統括させ、各地の医師に協力を要請し、筑前国自領内で幼児の強制接種を遂行したといいます。このようにやはり情報も医療も今からすれば発展してない時代なので(今の時代でも混乱はありますが)接種施行自体にも多くの困難があったようです。しかしながら種痘の実地により以降の痘瘡流行は急激に抑制されていきます。文久2年(1862)の冬大規模な天然痘の流行があり、糸島地域でも多数患者は出ましたが、そのほとんどは軽症で済んだようです。

6.江藤貫山と九州大学医学部

私の曽祖父、江藤貫山の業績としてもう一つ述べておかなければならない重要なことがあります。それは当時、黒田藩の筆頭の御典医の仕事をしておりましたが、後の九大医学部の基礎を作る武谷椋亭を面接して太鼓判を押して黒田藩(福岡藩)の御典医に採用したことです。椋亭は適塾(後の大阪大学医学部、蘭学医の緒方洪庵が開塾、福沢諭吉などもこの塾の出身)出身でこの塾を退塾して福岡に帰った(いわば再就職した?)蘭学医です。後に九大医学部の基礎となる賛生館の館長となります1.椋亭の足跡(1)̶適塾入門~藩医への登用 ・安政元(1854)年10月、長溥と初対面・同年11月、黒田家家老野村隼人の臣下を診療 →江藤貫山と問答、蘭館医の診断・処方と比べて遜色なし。「公、予が答の卓爾たるを深く御感賞あり しとなり」(『南柯一夢』巻一)・安政2(1855)年1月、「三人扶持被下御城代組に被 差加」および精錬方御用(製薬部門担当)。

江藤貫山は安政七年、西暦1860年に五十四歳で残念ながら亡くなりました。藩命により長崎や江戸を行き来したと記録されていますので新幹線も飛行機もない時代に長旅はさぞ骨が折れたことでしょう。彼の死を惜しんで黒田藩の代々の墓の中に、天神の材木町(天神三丁目あたり)の安国寺の敷地に祭祀されました。貫山の死後7年後に九州大学医学部の元となる黒田藩の医学校、賛生館が設立されその初代校長に江藤貫山がリクルートした先に述べた武谷椋亭が就任します。今年は武谷椋亭の生誕200周年で九州大学と大阪大学(緒方洪庵)とで巡回展が開催されました。もし、江藤貫山がもう少し長生きしておれば、椋亭と同じく福岡医学校設立ひいては九大医学部の歴史に名を遺せたものと思います。

7.エピローグ

今回、母が亡くなり自分の先祖のいろいろな話が通夜の席で出てきて、曽祖父、江藤貫山の業績を詳しく調べる中で、長年黒田藩において日本国民いや人類が苦しんだ天然痘という恐ろしい伝染病に挑んだ先祖たちの努力を改めて知ることができました。天然痘の絶滅宣言が出たのが昭和55年(1980年)です。つい最近やっと克服できたとも言えます。現在(当院でも)ワクチン接種を行っているコロナ以外にも人類、人間社会の存続を脅かすような感染症が出てくるかと思います。われわれ医療関係者はいつの時代もその先頭に立って働かざるを得ないものだと痛感いたしました。

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